4◇ 天災と人災(1)
今年(2017年)の1月、3年前の9月の御嶽山の噴火で(死者58人・行方不明者5人)死亡した登山者5人の遺族11人が、「気象庁が噴火警戒レベルの引き上げを怠った」として、国と 長野県に総額1億4000万円の損害賠償を求める訴訟を、長野地裁松本支部に起こしました。
火山の噴火自体は自然現象で、死傷者がおらず、建物や農作物などへの被害がなければ、これを我々は災害とは呼びません。実際、同時期に噴火した西ノ島火山を災害と考える人はいないでしょう。確かに御嶽山の場合も、もし気象庁が噴火警戒レベルを1から2に上げて、火口周辺規制をしていれば、死傷者は出ず、御嶽山の災害は無かったかもしれません。とすると、この災害は天災なのでしょうか?あるいは人災なのでしょうか?
私たちは、6年前にも同じような経験をしました。福島第一原子力発電所の爆発事故です。東北太平洋沖地震による津波で全ての外部電源を喪失し、また地下1階にあった非常用ディゼル発電機や冷却用海水ポンプが使用できなくなったため、原子炉の温度が上がり爆発に至ったものです。津波災害という意味では天災ですが、原発の建設時に想定した津波の高さが5.7mだったため、主要設備の標高を10mにしたこと、非常用発電機等を地下においていたことなどが人災と言われました。
この2つの例はいずれも、災害を起こすような自然現象の予測は、現代の科学的知見や技術でどこまで可能か?という問いと関係しています。結果的に言えば、予測ができなかったわけですが、実際には、現代の科学的知見と技術は、予測できる・できないという白か黒かはっきりしたレベルのどちらかにいるわけではなく、グレーゾーン、それも限りなく白に近いところから限りなく黒に近いところまでの大きな幅を持った間にいると考えられます。科学技術の「未熟」と言えるかもしれません。それでも対策を立てるのに寄与しなければならないとなると、自ずとあいまいな提言しかできず、経済的・社会的制約の前では説得力を欠いたものとなると言わざるを得ません。
上の2つの災害も、噴火の前にあるはずの火山性地震を伴わず噴火したこと、マグニチュード9.0という巨大地震が日本の近海で起こり14mもの津波に襲われると断言できなかった科学技術の未熟が原因でしょう。これは、人災でしょうか?長野地裁松本支部の判決が注目されます。
2017年2月 梶(関町北2丁目防災会)
(参考)
1.ヤマちゃん日記「福島第一原発の主犯は東電ではない」
http://yamatyan369.seesaa.net/article/391469774.html
2.日本経済新聞2011年8月24日「福島第1原発、10メートル超の津波想定 東電が08年試算 震災4日前に保安院へ報告」
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2403D_U1A820C1CR8000/
4◇ 天災と人災(2)
天災か人災か、が大きな議論となったもう一つの例をあげましょう。2015年9月、北関東から東北を襲った豪雨により、鬼怒川が決壊して、茨城県常総市を中心に、死者2名、全壊家屋53戸、家屋浸水3,000戸という大災害になりました。この災害も天災ではなく人災だと主張する人がいます。自然堤防の役割を果たしていた丘陵地が削られ太陽光発電パネルが設置されたからだというのです。しかし、この丘陵は私有地で、パネルを設置した業者には自然堤防という認識はなく、また、河川管理者も開発を制限できませんでした*1。
そうした直接的な人災論とは別に、これまでの治水政策が問題の根源だとする議論があります*2。すなわち江戸の町を洪水から守るために、利根川の流路を変更して(「背替え」と呼ばれます)、もともと独立の河川であった鬼怒川の河道を利根川の支流とし、さらに人口堤防で直線化した結果、一気に下流に水が集中するようになったというわけです。人口堤防も、以前の河道を横切って築くため、新しい川から地下水が流れ込み、崩れ易かったと言われます。つまり、今回の洪水は、こうした洪水に弱い堤防や地域を作った過去の治水政策にその根源的原因があるため、人災だというわけです。
これは大きな議論です。確かに私たちは自然を改変して、自分たちの住みやすい環境を造り上げてきました。東京湾一帯に広がる埋め立て地や多摩地域に多く見られる宅地造成地などはその代表で、小規模なものを含めると、枚挙にいとまがありません。そして、災害、特に地震では、こうした地域で液状化被害や造成地の崩壊被害が起こります。これらは全て人災でしょうか?
これもまた、科学的知見と技術が関係してきます。ただし、この場合は、火山の噴火や大津波と異なり、予測できなかったというわけではありません。そうした現象が起こることは予測できたし、それを防ぐ対策もないわけではないのですが、被害を完全に防ぐには膨大なお金がかかってしまいます。しかもそのような被害をもたらす大きな災害の発生の頻度や可能性は極めて低い、という状況の下では、どこまでお金を掛けてその対策を講じるかが判断の分かれ目になります。経済性を全く無視した安全の追及は理想論でしかないからです。そして、結果として十分な対策が取られず、何十年・何百年に一度の災害で大被害となるわけです。そう考えると、この場合は、科学技術の未熟というよりは、科学技術の現実社会への適用の「限界」と言えるのではないでしょうか?そして我々は、それを覚悟で日々生活しているのであって、被害が起きた時に人災だと自虐するより、覚悟していた天災だと考えるべきではないでしょうか?
2017年2月 梶(関町北2丁目防災会)
*1 THE HUFFINGTON POST(2015年9月15日)
「鬼怒川氾濫、ソーラーパネル業者『下線事務所は何も心配ないとの話だった』」
http://www.huffingtonpost.jp/2015/09/14/kinugawa-solar-panel_n_8137396.html
*2 「鬼怒川大水害-これは偏った治水政策が招いた『人災』だ!」高橋学、2015.09.15
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/45315